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スペイン語やスペイン語圏文化・社会などに関するコラムやレポート

 スペイン語を学ぶだけでなく、それが話されている社会についても理解を深めるために、スペイン語圏の文化や社会に造詣が深い執筆者によるコラムを掲載しています。コラムの多くが教科書のユニットテーマと関連しています。また、関連情報や留学体験記などもレポートも掲載しています。

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スペイン語やスペイン語圏の文化・社会などに関するコラムやレポート

コラム・レポート
12
2017/09/20

第15回 スペイン語国旅行記 ボリビア(3)―ティワナク ―[堀田英夫]

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第15回 スペイン語学徒のスペイン語国旅行記 ボリビア(3) ―ティワナク編―


堀田英夫

 ボリビアでユネスコの世界文化遺産に登録されている6ヵ所(2017年現在)のうち、今回は「ティワナク:ティワナク文化の宗教的・政治的中心」(Tiwanaku: centro espiritual y político de la cultura Tiwanaku)を訪れることができた。

 ウユニ発午前8時25分の飛行機でラ・パスのエル・アルト空港に到着、9時50分頃に空港から出て、その足でまっすぐ西方、ティワナクへ向かった。車は途中、エル・アルトの市街地をかなり走り、しばらくしてから郊外の道に入った。まっすぐ行けばペルー国境という道路では、料金所の他に警察の検問があった。国境警備の一貫とのことである。荷物検査をされている車も見受けられたが、我々の車はドライバーが書類を見せるだけで検問を通過できた。

 ティワナク遺跡は、インカ文明より遥か昔に繁栄したティワナク文明の中心地であったところである。ユネスコ世界遺産のウェブサイトに記載してある紹介文1によると、ティワナクは西暦500年から900年に絶頂期を誇った強大な帝国の首都であった。その影響は広大な南部アンデス地方とその周辺地に拡がっていて、遺跡群からは、アメリカ大陸に発展した他の先スペイン期文化と明白に異なった文明であり、その文化的政治的重要性がわかるとある。

 あたり一帯は赤茶けた土地で、遺跡のある敷地が金網で仕切られている。敷地内には、主な建物としてアカパナ・ピラミッド(Pirámide de Akapana)、半地下式祭壇(Templete Semi-subterráneo)、カラササヤ神殿(Templo de Kalasasaya)が建っている。近辺に灌漑用水を引くため、ピラミッドの頂上にため池と、そこからの水路が作られていたこと、カラササヤ神殿は、暦を知るため、日の出の太陽の位置を観察できる構造となっていたことなどが興味深かった。司祭達の住居跡ではないかと言われる部屋(の基礎部分)が並んだところもあった。これらの中や間のあちこちに、加工技術が見事な、表面が平らで滑らかな直方体の石材、石材をつなぐ青銅製カスガイ跡、石に穴を開けて作られている拡声器、アンデス十字(chacana)、太陽の門(Puerta del Sol)やいくつかの一枚岩の石像・石碑(monolito)などを見た。遺跡内では、遺跡保護のための監視員があちこちにいて、地面に転がっているなんでもないような石の上に腰掛けるだけでも注意されるとのことで、標高約3,880mの薄い空気の中、休みたくても休むことができず、ずっと歩いて見学せざるをえなかった。

ティワナク遺跡内の現地女性
ティワナク遺跡内を歩いている現地の女性

アカパナ・ピラミッド(Pirámide de Akapana)ティワナク村の眺望
アカパナ・ピラミッド(Pirámide de Akapana)の頂上からティワナク村を望む
やや右の方に、ティワナク遺跡の石材を使って作られたとされる教会が見える。

アカパナ・ピラミッド(Pirámide de Akapana)復元されていない遺跡の建造物
ティワナク遺跡
アカパナ・ピラミッド(Pirámide de Akapana)など、遺跡の建造物はあまり復元されていない。

 ティワナクは、後にインカ文明の担い手たちがこの地に来た時、またその後スペインの征服者たちが来た時にはすでに廃墟となっていて、スペイン人達が近くの村に建物や教会を建設する際に、ここの石材を使うために破壊し、あるいは黄金を探してさらに破壊したと言われている。そのため、ティワナク時代の建物の正確な形はよくわからず、1960年代に行われた復元も、どの程度かつての様子を示しているのかわからないとのことである。例えば、半地下式祭壇の壁面のたくさんの顔面が何を意味するのかなど、当時の社会や文化について、まだまだわからないことがあるとのことであった。

 併設されている博物館(Museo Regional de Tiwanaku)では、出土された土器や、スカ・コリュ(suka kollu―アイマラ語)またはワル・ワル(waru waru―ケチュア語)という、畝を盛り上げ周囲に水を張った農耕方法などの展示、それに別の建物(Museo Lítico)の中で「ベネット」と名付けられた高さ7.3m、重さ20トンという最大の石像も見ることができた。博物館前には、国旗とラ・パス州旗、それに中央のポールには、7色の旗が掲げられていた。この旗は、ラ・パス市の国会議事堂前にも掲げられていたもので、憲法(6条)に規定されている国の象徴の一つで、先住民の旗wiphara(アイマラ語で「旗」)である。

ティワナク博物館前に掲揚されている旗
ティワナクの博物館前に掲げられた旗
手前から国旗(横に三色の国旗が、ポールにからまっているため、縦三色旗に見えている)、wiphala(先住民旗)、ラ・パス州旗。

 ティワナク遺跡で聞いた話で一番驚いたのは、ここでエボ・モラレス(Juan Evo Morales Ayma)大統領が就任式を行ったということである。モラレス大統領は現在3期目で、2006年、2010年、2015年と3度、議会での宣誓式の前に、ここで儀式を行っている。インターネット上の動画2、ボリビア外務省サイト3や新聞報道4を見ると、儀式は博物館内の石像「ベネット」の前での「禊」から始まり、先祖伝来(ancestral)とされる象徴の意味を込め、ボリビア各地の貴金属や織物で作られた衣装を身につけた大統領が、遺跡内を歩いて進み、カラササヤ神殿で、先住民の長老たちから、権力の象徴である2本の笏を受け取るという一連の儀式をおこなっている。また、2012年には、アルバロ・ガルシア・リネラ(Álvaro Marcelo García Linera)副大統領がここで結婚式を挙げている5

 ティワナク遺跡が、ボリビアの先住民あるいは先住民の血や文化を受け継いでいる人々にとって、先祖の偉大な文化の証しであり精神的な源という意識があるのだと思われる。先住民の復権を政策の一つとして訴えるモラレス大統領やガルシア・リネラ副大統領は、自らの信念を可視化するためにここティワナク遺跡で儀式を執り行ったのであろう。

 しかし、遺跡を貴重な祖先の遺産と考えて、遺跡内に転がっている石に腰掛けただけで注意するほど保存に気を使っている人たちは、就任式の度に、普段立ち入り禁止の場所を大統領一行が通り、多勢の参列者、見物客、報道陣が遺跡に押しかけたのをどう感じたであろうか。

<脚注>

写真はいずれも2017年4月、ボリビアにて撮影[© 2017 Setsuko H.]

[堀田英夫]
東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了
現在:愛知県立大学名誉教授
著書:『スペイン語圏の形成と多様性』(朝日出版、2011年)、編・共著:『法生活空間におけるスペイン語の用法研究』(ひつじ書房、2016年)、論文:「大航海時代の外国語学習―メキシコのフランシスコ会宣教師たちの場合」(愛知県立大学外国語学部紀要言語・文学編(47)2015年)など。より詳しくは<こちらへ>

14:46 | 先住民
2017/07/31

第14回 スペイン語国旅行記 ボリビア(2)―ウユニ ―[堀田英夫]

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第14回 スペイン語学徒のスペイン語国旅行記 ボリビア(2)―ウユニ編―


堀田英夫

 ウユニ市は、鉱物を運搬する鉄道の中継点として1889年に建設された町である1 。駅を中心に鉄道の北西側に広がる町は、機関車など鉄道の整備保全や必要物資の供給に携わる人たちが居住することで発展してきた。通りが碁盤の目状に走っていて、この町が計画的に開発されたことをうかがわせる。ボリビアの作家であり政治家・外交官のアドルフォ・コスタス・デュ・レルス(Adolfo Costas Du Rels. 1891-1980)は、1921年刊行の短編小説『ミスキ・シミ―甘い口の女』(La Miskki Simi: La de la Boca Dulce)の冒頭で、”Sitio sin alma, gente sin ángel, tierra sin agua, sol sin calor, Uyuni fue siempre el pueblo más desventurado de Bolivia.” 2(魂の無い所、優しさの無い人、水のない地、熱の無い陽(ひ)、ウユニはいつもボリビアで最も恵まれない町だった―拙訳)とウユニを描写している。実際郊外は草木が少ない荒涼たる土地で、街中も土埃が舞っていた。現地ガイドによると、アルゼンチンなどに出稼ぎに行く人が多く、現在は観光業で生活している人も多いとのことである。地図で鉄道路線を見ると、北へはオルーロ(Oruro)、かつてこの鉄路の途中にはポトシ(Potosí)3への分岐線があったようである、西へは国境を越えてチリの太平洋岸の港町アントファガスタ(Antofagasta)へ、南東へはアルゼンチンとの国境の町、ビリャソン(Villazón)から、アルゼンチン国内へと続いている。

ウユニ  日曜日の路上青空市
日曜日の路上青空市

 鉄道とともに発展してきたウユニには、観光スポットとして「列車の墓場」(Cementerio de trenes)がある。もっとも、正確には「蒸気機関車の墓場」(Cementerio de locomotoras de vapor)であると現地ガイドが説明してくれた。かつては蒸気機関車が鉄道輸送の主流であったが、その動力源である石炭は輸入品でありコストがかるため、自国で生産できる石油によるディーゼルを動力とする機関車がその役割を担うようになり、蒸気機関車が放置されていったらしい。

ウユニ「列車の墓場」(Cementerio de trenes)
「列車の墓場」近くの線路
この線路は現在も列車が運行されているので錆びていない。

 スペイン語を長年勉強していても、これまでボリビアという国のことはあまり知ることはなかった。今でこそ「ウユニ塩湖」(el Salar de Uyuni ウユニ塩原)が有名となり、日本でもいくつかの旅行会社からここに行くツアーが売り出されていて、訪れる人も増えているようである。宿泊したホテル・パラシオ・デ・サル(Palacio de Sal.「塩の宮殿」)は、1998年に塩湖の中に世界で初めて塩で建てられたホテルで、2004年に塩湖沿岸の陸地上に移転したとパンフレットにある。ウユニへ観光で訪れる人々が増えたのは1998年頃からだと思われる。ラ・パスから到着した空港は、空軍基地であったものを2011年7月に商業空港として開港したとのことで、それまではバスか車または鉄道でしか訪れることができなかった。ラ・パスから空路なら約45分で着くが、陸路では10時間以上かかるようである。

 観光の定番の一つとして訪れた塩工場では、小屋の外に野積された塩を、お世辞にも清潔とは言えない小屋の中で、男性一人が乾燥、ヨード混ぜ、袋詰めの作業をしていた。ヨード(ヨウ素、yodo/iodo)はチリから輸入しているとのことである。ヨードは人間に必須の元素であり、過不足により甲状腺異常となる。ウユニ塩湖の塩にはヨードが含まれておらず、ボリビアのような内陸に暮らす人たちはヨード不足であるため、ヨードを混ぜているのである。塩の包装紙にはSAL YODADA(ヨウ素添加塩)と表記されている。

 広大な塩湖の中での、360度を見渡しての塩上の水面に映る鏡像、空と空を反射した水面の色が刻一刻と変わる日没鑑賞、天の川と南十字星を含む星空鑑賞は、絶景であった。二日目は塩湖のほぼ真ん中にあり、巨大なサボテンが立ち並ぶインカワシ島(Isla Incahuasi)に登った。他の小さな島々のサボテンは沿岸住民が切り出して建材などとして使用したため大きく育ったものがなくなってしまったそうである。インカワシ島は沿岸からかなり離れているため、サボテンは伐採されることなく残り、現在は保護されているとのことであった。現地ガイドによると、サボテンが伸びる長さは1年に約1cmなので高さ10m以上あるサボテンは1000年以上の時を経ているそうである。塩湖の空間的広がりだけでなく、悠久の時も感じることができる場所である。島の頂上は塩湖から160mぐらいだが、塩湖が既に海抜約3660mに位置しているため、急斜面を登るのは、かなり大変であった。その後、塩湖を北上し、トゥヌパ火山(Volcán Tunupa)のふもとのチャンタニ村(Chantani)の民営博物館を訪れた。

ウユニ  インカワシ島と塩湖
インカワシ島と塩湖

ウユニ  インカワシ島から塩湖を望む
インカワシ島から塩湖を望む

 観察することのできたスペイン語について少し書く。ウユニのホテルで提供されていたティーバッグはボリビア製で、“mate de manzanilla”(カモミール茶)、 “mate de coca”(コカ茶)、 “mate de anís”(アニス茶)、 “trimate”(3種茶混合)、 “té clásico”(「古典的茶」、紅茶)、 “té con canela”(シナモン入り紅茶)とあった。mateという語が茶葉一般の意味で使われていて、紅茶はtéとして区別されている。mateは、アルゼンチンなどでは、マテ茶の意味であり、茶葉一般の意味ではない。

 またボリビアへの輸入品ではあるが、スラッシュでもって複数の語形を併記することでスペイン語語彙の地域差を考慮した表示がしてあるのを観察することができた。以下、例をあげ、主な使用地域を[ ]の中に示す。キャンディ包装紙(チリ製)に “GOLOSINA SABOR A CHOCOLATE RELLENA CON CREMA SABOR DAMASCO / CHABACANO”(アンズ味クリーム入りのチョコレート味菓子)に、「アンズ」がdamasco/chabacanoとある[南米/メキシコ]。“GOLOSINA SABOR A CHOCOLATE RELLENA CON MANJAR/DULCE DE LECHE”(ドゥルセ・デ・レーチェ入りチョコレート味菓子)に、「凝乳と砂糖を煮詰めた菓子」であるドゥルセ・デ・レーチェが、manjar/dulce de lecheとある[アンデス地域/その他]。成分表示でSOYA/SOJA(大豆)[中南米/スペイン]、MANI/CACAHUATE(ピーナッツ)[南米/メキシコ]との表記もある。他のキャンディ包装紙(生産地不明)では、naranja(オレンジ)、manzana(リンゴ)、guinda(クロサクランボ)、leche(ミルク)は、それぞれ包装紙に一つの語が2度表記してあるのに対し、イチゴは、frutilla[アルゼンチン]とfresa[それ以外の地域]の二つが書いてあった。

 父親と自身もケチュア語を話す現地ガイドは、アンデス地域スペイン語の特徴の一つと言われる語頭rに、ふるえ音でなく破擦音が観察されることが時々あった。また運転手は“¡De vos!”(君が良いと言えば出発するよ)のように前置詞格vosを使っていた。ごく断片的な観察でありvoseo(2人称単数にvosと2人称複数起源動詞形を使うこと)を使用しているのかどうかまでは観察できなかった。

<脚注>
  1.   http://uyuniweb.com/antano/pagina.php?sip=2
  2.   http://www.educa.com.bo/content/la-miskki-simi
  3.   植民地時代に大量の銀を産出した銀山があるところ。現在は銀の他に錫を産出している。

写真はいずれも2017年4月、ボリビアにて撮影[© 2017 Setsuko H.]

[堀田英夫]
東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了
現在:愛知県立大学名誉教授
著書:『スペイン語圏の形成と多様性』(朝日出版、2011年)、編・共著:『法生活空間におけるスペイン語の用法研究』(ひつじ書房、2016年)、論文:「大航海時代の外国語学習―メキシコのフランシスコ会宣教師たちの場合」(愛知県立大学外国語学部紀要言語・文学編(47)2015年)など。より詳しくは<こちらへ>

21:34 | 先住民
2017/06/20

第13回 スペイン語国旅行記 ボリビア(1)―ラ・パス―[堀田英夫]

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第13回 スペイン語学徒のスペイン語国旅行記 ボリビア(1)―ラ・パス編1


堀田英夫

 アメリカ・ダラス、マイアミを経由し、ボリビアのラ・パス(La Paz)2の空港に早朝に到着した。成田を発って、各空港での乗り継ぎの待ち時間を含めて、ボリビアに入国するまで31時間30分の空の旅だった。

 ボリビアの正式国名はボリビア多民族国(Estado Plurinacional de Bolivia)である。アルト・ペルー(Alto Perú 高地ペルー)と呼ばれていた土地が、南米解放指導者シモン・ボリーバル(Simón Bolívar)軍によってスペインから解放され、1825年に独立した。ボリーバルに敬意を表し最初はボリーバル共和国(República de Bolívar)を名乗った。2ヶ月弱後、ボリビア共和国(República de Bolivia)という名となり、2009年3月18日の最高政令(Decreto Supremo. 48号)により、現在の国名になった。BolívarがBoliviaとされたのは、独立当初の各地方代表者からなる議会でのポトシ(Potosí)代表の「ロムルスからローマなら、ボリーバルからはボリビア」(“Si de Rómulo, Roma; de Bolívar, Bolivia”3, ”si de Rómulo viene Roma, de Bolívar tiene que venir Bolivia"4など)という発言から、とのことである。しかしながら、Romaが伝説上の建国者Rómuloにちなんだ名という点は解るが、なぜBolívar がBoliviaという語形となったのかは不明である。Francia(フランス)、Italia(イタリア)、Colombia(コロンビア)など–iaで終わる国名が数多くあるように、この語尾は地域や国を表す。-iaをつけるだけならBulgaria(ブルガリア)のようにBolivaria(ボリバリア)という語形も可能だったのではないか、あるいは、フィリピン(Filipinas)がフェリーペII世(Felipe II. 1527-1598)にちなんで「フェリーペの島々」(Las Islas Filipinas)とされたように、すなわち形容詞形であることから、Bolívarの形容詞形から、(República)Bolivariana(ボリバリアーナ共和国)という名称5も考えられたはずである。

 ラ・パスの空港の正式名はエル・アルト国際空港(Aeropuerto Internacional El Alto)で、―アルト(alto)とは、スペイン語で「高い」という形容詞であり、名詞としては「高いところ」を意味する―この名の通り、海抜約4,060mの高地にある。空港のあるエル・アルト市(Ciudad de El Alto)は、ラ・パス大都市圏(Área metropolitana de La Paz)に含まれているが、新興住宅地が広がっていて、富裕層が住む低地のラ・パス市とは別の行政区(municipio)となっている。(帰りの)飛行機内のモニターには、滑走路にいるのに、「高度(Altura)4,063m」と表示されていた。空気が薄いことを感じつつ、入国審査、委託荷物受取、税関をゆっくり歩いて通り、制限区域を出て、出迎えガイドに連れられて空港建物内数百メートルを歩き、両替所窓口の前まで行ったところで、妻が倒れこんでしまった。ガイドが持っていた携帯酸素ボンベを吸入させていたところ、両替所係員が、通りかかった空港職員に空港の医師(médico)を呼ぶように依頼してくれ、しばらくしてから酸素ボンベと酸素飽和度測定計(パルスオキシメーター)を持った人が来てくれた。座った状態で酸素吸入をしばらく続けた後、ようやく歩けるようになった。

 筆者も思考力・記憶力の低下、頭痛、消化不良といった症状を感じており、海抜約3,650mのラ・パスの市内を、いつもの観光のように歩き回るのは無理であった。初日は550ccの携帯酸素ボンベ2本を二人で空にしつつ、意識して腹式呼吸したり、水分を頻繁に補給したりしてなんとか乗り切った。

 ラ・パス市は行政・立法上の首都6である。最初にムリーリョ広場(Plaza Murillo)に車で連れて行ってもらった。ここが、当初はマヨール広場(Plaza Mayor)、後にアルマス広場(Plaza de Armas)という名であったように、他のスペイン語諸国にもみられる市の歴史的な中心である。独立のため蜂起し、1810年にこの広場で処刑されたペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ(Pedro Domingo Murillo 1759-1810)にちなんで現在の名が付けられたとのこと。周りに大聖堂(Catedral)、大統領官邸(Palacio de Gobierno, 1875年の火事により俗称がPalacio Quemado「焼けた宮殿」)、国会議事堂(Palacio Legislativo)がある。建物は他のスペイン語圏と似ているものも多いのだが、高地のため、道路はすべて急な坂で、まったく異なる景観であった。広場も傾斜地を平らにして作ったようで、広場にある道路元標(Kilómetro Cero)のプレートや広場の名称由来を示すプレートも地面に水平にあるのではなく、傾斜地の低い部分を高くするための段の横面に垂直に設置されていた。

ムリーリョ広場(Plaza Murillo)  Reloj Sur
ムリーリョ広場(Plaza Murillo)と国会議事堂
議事堂正面には2014年6月に数字と針が逆回りの、左回りの時計(右の写真)が掲げられた。南半球にあるボリビアが
今こそ自分たちのアイデンティティを回復する時であることを示すため北の時計と逆の、南の時計(reloj del sur)にしたとのこと。
日時計の影が南半球では北半球と逆に動くことから理屈には合っている。写真では8時25分を示している。

 その後、車で移動し、スペイン時代の様相が保たれた街路で、いくつかの博物館のあるハエン通り(Calle Jaén)、サンフランシスコ教会(Basílica de San Francisco)を見た後、車窓から魔女市場(Mercado de las brujas)を見てから、公共交通機関となっているロープウエイ(Mi teleférico)に乗った。2014年開通のこのロープウエイは、各駅名がアイマラ語とスペイン語でつけられていて、前者の方が大きく表記されている。先住民出身エボ・モラレス(Evo Morales)大統領が就任(2006年)してから施行した憲法(2009年)に、スペイン語のほかに36の先住民言語が国の「公用語」(idiomas oficiales del Estado)であるとされている7ことからすると、先住民言語の復権や公の場での表記推進政策の一環のようである。黄線(Línea amarilla)の起点Qhana Pata / Mirador駅8から乗り、Chuqi Apu / Libertador駅で緑線(Línea verde)に乗り換え、終点Irpawi / irpavi駅まで乗って、ラ・パス市街を空中から座ったまま観察した。

 ロープウエイ(Mi teleférico)  終点Irpaw
ロープウエイ(Mi teleférico)からの街並と駅内の「イルパビ方面」(Dirección IRPAWI)の表示
スペイン語表記Irpaviはアイマラ語表記の下に小さく書かれている。

<脚注>
  1. 2017年4月に妻と二人で旅行して見聞したことと、旅行前後に調べたことを3回に分け書き記す。
  2. 定冠詞+「平和」。公式名Nuestra Señora de La Paz「平和の聖母」。初代ペルー副王Blasco Núñez Velaに対するGonzalo Pizarroの反乱から始まったスペイン人征服者同士の内戦が鎮圧され「平和」が戻ったということによる名称で1548年に設立された。当初は、現在のラ・パス市から西35kmのLajaという地が選ばれたが、強風が吹くため、3日後に現在の地に変更されたとのこと。
  3. https://tedejo1.wordpress.com/no-es-bolivia-%C2%A1es-bolivar/
  4. http://lapatriaenlinea.com/?nota=115167
  5. ベネズエラは1999年の憲法で国名をRepública Bolivariana de Venezuelaとしている。
  6. 最高裁判所がある、憲法規定の首都はスクレ(Sucre)。
  7. 堀田英夫編(2016)『法生活空間におけるスペイン語の用法研究』(ひつじ書房)pp.40-44.
  8. 駅名は「アイマラ語 / スペイン語」の順に記した。Qhana Pata とMiradorは共に[展望台]を表す。Chuqi Apu / Libertador駅のChuqi Apuはチョケヤプ川(el río Choqueyapu)の名の由来で[金の農場]を意味し、スペイン語駅名Libertadorは通りの名(Avenida del Libertador[解放者])からつけられている。Irpawi / irpavi駅は南部の地区名のそれぞれアイマラ語綴りとスペイン語綴りである。


写真はいずれも2017年4月、ボリビアにて撮影[© 2017 Setsuko H.]

[堀田英夫]
東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了
現在:愛知県立大学名誉教授
著書:『スペイン語圏の形成と多様性』(朝日出版、2011年)、編・共著:『法生活空間におけるスペイン語の用法研究』(ひつじ書房、2016年)、論文:「大航海時代の外国語学習―メキシコのフランシスコ会宣教師たちの場合」(愛知県立大学外国語学部紀要言語・文学編(47)2015年)など。より詳しくは<こちらへ>

11:25 | 先住民
2017/05/29

第12回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から― (5)[三好準之助]

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第12回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から―(5)


三好準之助

 私はコラムの第2回で、スペイン語がこの世界の多くの国で公用語になっていることを紹介しました。その地域は、おもに、いわゆる中南米の国々ですが、アメリカ大陸に到達したコロンブスの遠征のスポンサーであるスペイン王室が15世紀末から植民地としてきました。それから19世紀の初頭まで、スペインは広大な南北アメリカ大陸を支配します(ブラジルは当初からポルトガルの植民地でした)。アメリカ大陸に渡ったスペイン人は、各地で目新しい事物に接し、自分たちが知っている事物に似ているものには自分たちのスペイン語の単語を当てましたが、大半の事物の名前には先住民のことばを採用しました。先住民にも多くの異なる集団があり、彼らの言語も異なっていたために、その土地ごとの珍しい事物にその土地の言語の名前が付けられていきます。その名前がその土地のスペイン語に入り、そのスペイン語が本国のスペイン語にも入りました。植民地から独立したあとの国々は、宗主国であったスペインの言語を公用語にします。それらの公用語には国ごとに独特の先住民語系の単語がたくさん含まれています。

 スペイン語の単語の出自の多様性ということでは、南北アメリカの先住民語系の単語が大きく貢献しています。しかし中南米のスペイン語からスペインのスペイン語に入った先住民語系の単語の多くは、スペイン語を経由して世界に広まり、遠くの日本にも届いています。

 コロンブスが1492年に到着したのはカリブ海に浮かぶ島々でした。そこではアラワク語(代表的な方言はタイノ語)が話されていました。コロンブス自身がこのアラワク語からcanoa「カヌー」[カノア]、hamaca「ハンモック」[アマカ]、caribe「カリブ人」[カリベ]などを採用し、日記に記載しています。アラワク語から採用された単語には、ほかに、maíz「トウモロコシ」[マイス](英語がこのスペイン語をmaize[メイズ]として採用)、batata「サツマイモ」[バタタ]、sabana「草原」[サバナ]などがあります。このsabanaから英語系の地理用語savanna「(広い草原地の)サバンナ」が形成されました。また、語源は不明ですがtabaco「タバコ」もアラワク語系である可能性が大きいようです。

 カリブ海南部にはカリブ語を話す人たちが住んでいましたが、このカリブ語からスペイン語に入った単語に、caníbal「食人種」[カニバル](コロンブスの日記にも出ていますが、これから英語のcannibalが形成されます)、caimán「(日本でも知られている)カイマン鰐(ワニ)」[カイマン]があります。

 スペイン人は16世紀の前半に、カリブ海から北アメリカ大陸を侵略します。いまのメキシコにあたる地域です。そこでも先住民がいくつかの言語を使っていましたが、その代表格はナワ語です。ナワ語からスペイン語にたくさんの単語が入りました。たとえば、日本でもよく知られている「チョコレート、ココア」はchocolate[チョコラテ]という名前でスペイン語に入りました。そして世界に広まったのです。チョコレートの原料はカカオの実ですが、それはナワ語からcacaoという形でスペイン語に入りました(このスペイン語が変形して、日本でもおなじみの英語cocoa「ココア」が形成されます)。

 スペイン人たちは、つぎに南米大陸を征服しますが、現在のエクアドル、ペルー、ボリビアのあたりに大きな植民地を形成しました。そこの先住民たちはケチュア語やアイマラ語という先住民語を使っていました。ケチュア語からスペイン語に入った単語に、condor「(鳥)コンドル」、papa「ジャガイモ」[パパ](これは上記のスペイン語のbatataと交差して、別のスペイン語patata「ジャガイモ」を作り、英語に入ってpotatoになります)、pampa「(草原の)パンパ」、mate「マテ茶」などがあります。

 スペイン人はペルーから南下してチリを征服しますが、そこの先住民はマプチェ語を使っていました。この言語からチリのスペイン語には多くの単語が入っていますが、スペインにはほとんど届いていません。わずかに届いたものの1つがmapuche「マプチェ人」です。このことばはマプチェ語のmapu「(生まれた場所の)生地、大地」+che「人々」でできています。

 スペイン人は18世紀に入って今のパラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンのあたりを制定します。そこではグアラニー語が使われていて、多くの単語がその地のスペイン語に入っています。

スペイン語の単語の多様性のことを5回にわたって、できるだけ皆さんの日本語とも関連させて紹介しました。これをきっかけにスペイン語に興味を抱き、学習する人が増えることを願っています。

[三好準之助]
京都産業大学名誉教授

12:30 | スペイン語の多様性
2017/05/18

第11回 Los chankas ミニライブレポート

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第11回 Los chankasミニライブレポート


 スペイン語部会では、2016年6月2日(木)にフォルクローレグループ「ロス・チャンカス」によるミニライブを行いました。「ロス・チャンカス」は、チャンカ族出身のヘーゲル・ロダスさんと、フォルクローレに魅入られて演奏者となった高岡幸子さんを中心とするグループです(ロス・チャンカスについてのより詳しい情報はこちら)。

 当日は、アンデスから呼び寄せられたかのような強い風の中、フォルクローレのリズムを体感させるロス・チャンカスの素晴らしい生演奏を楽しむことができました。風きり音がかなり入ってしまっていますが、当日のビデオを掲載します。

【演奏曲】
00:30「アンデスの夜明け」El amanecer andino
04:30「湖の娘さん」Malacun Wawapa
09:30「ウワイノメドレー」Mix de huayno
13:20「コンドルは飛んでいく」El condor pasa
19:00「チュクリャ」Chuqlla
24:00「花祭り」El humahuaqueño


 ミニライブ後の集合写真


 また、授業にもゲストとして参加していただき、あまり知る機会のないチャンカの音楽や文化について、当事者であるヘーゲルさんから教えていただきました。
チャンカについて説明するヘーゲルさん



20:29 | 音楽
2016/07/09

第10回 スペイン語圏の都市景観(3)[布野修司+Juan Ramón JIMÉNEZ VERDEJO]

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第10回 スペイン語圏の都市景観(3)
ジャウマⅡ世の都市モデルとアシメニスの理想都市


布野修司
ヒメネス・ベルデホ・ホアン・ラモン (Juan Ramón JIMÉNEZ VERDEJO)


 1492年以前のイベリア半島にはローマ都市の伝統が基層にあり、その上にイスラーム都市の伝統が重層してきた。そして、さらにレコンキスタの過程でキリスト教都市が移植されていく。スペイン植民都市の計画に直接につながるのはレコンキスタの過程で建設されたキリスト教都市である。レコンキスタは「西十字軍」と呼ばれたようにキリスト教世界の拡張の一環であり、スペイン王国はその延長としてコンキスタ(征服)へ向かうのである。注目すべきは、レコンキスタの過程で、いくつかの都市モデルが提出されていることである。これらの都市モデルはスペイン植民都市計画に直接つながっていったと考えることができる。

ジャウマⅡ世の都市建設
 スペインにおいて最初に都市モデルを提案したとされるのがマジョルカ王国のジャウマⅡ世(1243~1311:在位1276~1311)の布告(1300)である。布告は、戦乱で失われた領土の経済的、人的バランスを回復すること、そのために農業開発を行い、織物産業のための原材料となる作物栽培を行うこと、海陸の防御を固めること、イスラーム都市の特性を改善しマジョルカを近代化すること、独自の貨幣を発行し王国の収入を増やすことを目的とし、マナコル(Manacor)、ファラニッチ(Felanitx)、カンポス(Campos)、サンタニイ(Santanyi)など14の開発拠点を計画している。基本的には農業開発の拠点計画であり、10箇所は既存の集落を拡張するかたちをとっている。2つの新しい町、既存の村に隣接するかたちをとったファラニッチやペトラ(Petra)を除くと、既存の街路パターンが優先されている(図3-1)。計画規模はそれぞれ100家族とされた。

ペトラ(Petra)
図3-1

 農民は、各家族は区画内に住居建設用の宅地1クアルトン(Cuartón / Quartó)1(約1775㎡)と耕作地5クアルテラダ(Cuarterada / Quaterada)(3.55ha)を与えられた。またさらに、牧畜用に10クアルテラダを与えられることもあった。農民の他、工匠たちのためにも宅地が割り当てられている。入植者は6ヶ月以内に住宅を建設し、最低6年居住することが義務づけられた。入植者には住宅建設用の費用が補助され、入植のための費用の貸し付けも行われた。6年経つと住宅を得ることができ、10年経つと誰にでも転売できた。

 ジャウマⅡ世によるマジョルカ島における都市(集落)計画の背景として、また並行するものとして想起すべきは、13世紀から14世紀にかけて、フランスのラングドック、ガスコーニュ、アキテーヌ地域に建設されたバスティード2である。バスティードの多くはグリッド・パターンの都市である。

アシメニスの理想都市
 スペインにおける最初の都市理論とされるのは1385年のアシメニス(Francesc Eiximenis:1340~1409)3の著作『キリスト教12書Dotzè llibre del Crestià』である。『キリスト教12書』は建築書でも都市計画書ではない。都市の理想が描かれているといっても、断片的でごく一部である(106章から114章、263頁中、50頁から53頁の4頁にすぎない)。

 アシメニスは、まず、立地として自然、風と水に触れている。「風は冷たく、土地そして人間にダメージを与える」「都市は水の近くにあるべきである」「都市は川の側に立地するのがいい。分割される場合は2つまで、それ以上は都市が弱くなる」「海は、人々が広がっていく場所であり、裕福になるところである」などとある。さらに「主要道路には大きな下水道が必要である」という。続いて「都市の構成は美しい形態をとるべきである」とし、天文学が重要だという。「天文学を無視すれば、不幸になる。天をよく観察すれば、幸せになり、永続できる」そして「直線がより美しく、規則正しい」とする。

 そして、「ギリシャの哲学者に従えば」と、「全ての都市は正方形(四角)であるべきだ」(110章、51頁)という。「各辺中央に入口があり、各辺中央から市壁の角までは500パソ4(1辺1000パソ)である。東西の門は広くて大きい。また、南北も同様である」また「教会は中央にあるべきで、隣接して大きな美しい広場がある」「広場の四方には階段があって高くなっており、攻撃を受けた場合、防御しやすいようにしてある。広場は、また、聖なる場所として維持されなければならない」という。

 アシメニスの理想都市モデルの基本は以下のようになる(図3-2)。

エイシメニスの理想都市モデルの基本
図3-2

 1) 立地:平坦な地形で自由に拡張が可能なこと。
 2) 方位:都市の主軸は南東向きとし、北風を防ぐこと。
 3) 広場:一辺1,000パソの正方形。
 4) 市壁と主門:各辺の中央に門を設ける。正門は東門。
 5) 副門:正門と市壁角との間に2つの副門を設ける。
 6) 街路は直線とする。
 7) 主街路と住区:主門と主門(東西、南北)を繋ぐ主街路によって4つの住区に分割する。
 8) 広場:各住区は広場を持つ。
 9) 教会:中心に位置し、主教、司祭の住居が近くにある。
10) 主広場:通路階段をもった主広場を教会の近くに設ける。市場の開設や処刑は禁止される。
11) 王宮:都市の境界に位置し(市壁に接し)、直接市外への出入口をもつ。
12) 住区:各住区はいくつかの教区から成り、修道院、肉屋、魚市場、店舗、宿屋がある。
13) 各住区は様々な労働階層が居住し、水が豊富であること。
14) 病院、ハンセン氏病収容所、売春宿、下水道は、風下に置く。
15) 日常生活のための小売業は至る所に配される。 
16) 農民は農園の近くに居住する。港がある場合、船員は海の近くに居住する。

 アシメニスにとっては、理想都市の計画図を作成する以前に、法的、倫理的基盤に従った秩序づけられた社会をつくりあげることが問題であった。中心に置かれるのは、広場と教会であり、この中央広場(プラサ・マヨール)の概念はイベロアメリカのスペイン植民都市に広く取り入れられていくことになる。

サンタ・フェ
 イベリア半島にも、フランス南西部のバスティードと並行して、13世紀以降、四角い広場を中心とするグリッド都市、グリッド街区が建設されていく(図3-3)。

イベリア半島のグリッド都市
図3-3

 ジャウマⅡ世に先駆けて、カスティーリャ王アルフォンソⅩ世(1221~1284)が、アンダルシア南部に、ヘレス・デ・ラ・フロンテラ(Jerez de la Frontera)およびカディス(Cádiz)、セビージャの近郊トリアナ(Triana)などで開発した街区はグリッド・パターンである。アルフォンソⅩ世以降のグリッド都市、グリッド街区としては、アルバイダ・デル・アルハラフェ(Albaida del Aljarafe)(1302)、エスペホ(Espejo)(1303)、ウンブレテ(Umbrete) (1313)、カスティジェハ(Castilleja)(1334)などがある。その後も多くの都市が建設されていくが、15世紀になると、より規模の大きいより整然としたものがつくられるようになる。ドーニャ・メンシア(1415)、 イノハレス(Hinojales)、 ビジャラサ(Villarrasa)(1439)、グスマン(Guzmán)(1445)、パラダス(Paradas)(1460)、サン・ファン・デル・プエルト(San Juan del Puerto)(1468)などがそうである。チピオナ(Chipiona)(1477)は、広場の周囲に教会と市議会が立地するひとつの原型を示している(図3-4)。

チピオナ(Chipiona)など
図3-4

 1491年に建設されたサンタ・フェ(Santa Fe)はグラナダ攻略のために建設された軍事キャンプである(図3-5)。 セビージャ、コルドバなどから動員された兵士たちによってわずか3ヶ月で建設されたという。極めて整然としたグリッド都市である。4つの門をもち、それぞれコルドバ、ヘレス、セビージャ、ハエンと名付けられた。2つの東西街路で南北は3つの街区に大きく分けられている。このサンタ・フェ建設にあたった者に、後に「新世界」最初のスペイン植民都市サント・ドミンゴ(Santo Domingo)の建設者となるニコラス・デ・オバンド(Nicolás de Ovando)がいた。

サンタ・フェ(Santa Fe)
図3-5

 13世紀から15世紀にかけて現れたこの四角い広場を中心とする都市計画の伝統はイベリア半島において16世紀に入っても途絶えることはない。スペインは、イベリア半島における都市建設と平行して、というより、「新大陸」を自らの領土の拡張として、都市計画を展開していったのである。

<脚注>
  1. スペインの 古い単位で50バラである。約42.12 m四方で1,775㎡となる。
  2. バスティードという言葉は,建設するというバスティールbastir(オック語)に由来するというが、13世紀半ばから14世紀半ばにかけて、南西フランスに新たに建設された都市、集落群を一般的に指して用いられる。
  3. アシメニスはジローナ(Girona)生まれのフランシスコ会士で、著作家として知られる。先祖はユダヤ人だったという説があるが定かではない。ヘブライ語を解し、バレンシアではユダヤ人街でヘブライ語の文書の調査をしたことが知られている。バルセロナの教会に入り、ケルン、パリ、オックスフォードの大学で神学を修めた(1365~1370)後、スペインに戻って、まずバルセロナ、後にバレンシアに住んだ。バレンシア時代には市政に積極的に参加し、教育や裁判に関わったことが知られる。修道院も建設している。1408年にはエルナ(Elna、フランス・ルシヨン;当時はアラゴン王国)の司教に任命されている。
  4. 1パソ=5ピエ,139.3cm。

[布野修司]
日本大学特任教授。1949年、松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学、地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手、東洋大学講師・助教授、京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年)、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年)、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。

00:00 | 都市景観
2016/06/13

第9回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から― (4)[三好準之助]

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第9回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から―(4)


三好準之助

 今日の世界には国際語とも呼ばれる英語が広く浸透しています。日本もそうですし、スペインもそうです。日本の場合、明治時代にはもうイギリス英語やアメリカ英語起源の外来語がありました(どちらから入ったか決めるのは難しいようです)。例えば、Americanは既に江戸時代末期に「メリケン粉」の意味で使われていますし、明治に入ると「メリケン」は「米国人」の意味で使われます。「ストライキ」はstrike「同盟罷業」から、「トロッコ」はtruck「手押し車」から入りましたが、これらはその後、野球の「ストライク」や自動車の「トラック」としても使われることになりました。ゲームやカードの「トランプ」は面白いですね。日本で英国人たちがゲームをしているときに、そのゲームの名前を聞きたくてたずねたところ、聞かれた人が自分の「切り札」のことと思ってtrumpと答えたために生まれたと言われているようです。tunnel「トンネル、隧道(ズイドウ)」や発火用具のmatch「マッチ」も入ってきました。そして大正時代からはさらにたくさん入ってきます。第2次世界大戦後の昭和時代には大量に入ってきます。

 スペインでは、英語は、古くはフランス語を通してスペイン語に入っていたので、フランス語系の単語として扱われることがあります。たとえばスペイン語のcomité「委員会」[コミテー]は英語committeeに由来しますが、フランス語comité[コミテ]を経由していますし、イギリス英語waggon(アメリカ英語ではwagon)「4輪荷馬車」もフランス語のwagon, vagon[ヴァゴン]を経由して、19世紀の中頃にvagón[バゴン]として入っています。またスペイン語のconfort[コンフォル]「快適さ、安楽」はフランス語confort「生活を安楽にするもの」から入りましたが、これも英語comfort「安楽、快適さ」に由来します。
    英      仏    西
  • committee → comité → comité
  • waggon → wagon / vagon → vagón
  • comfort → confort → confort
 ほとんどの場合、英語起源のスペイン語の単語は元のスペルを残していますが、スペイン語式に語形を変えたものもあります。「アパート」のapartmentがapartamento[アパルタメント]、「野球」のbaseballがbéisbol[ベイスボル](20世紀の中頃から)、「フットボール、サッカー」のfootballがfútbol[フトボル](20世紀に入ってから)、「(サッカーなどの)ゴール」のgoalがgol[ゴル](20世紀の初めから)、「リーダー」のleaderがlíder[リデル]、「集会、会議、討論集会」のmeetingがmitin[ミティン](20世紀の初めから)、「テニス」のtennisがtenis[テニス](20世紀の初めから)、「ヨット」のyachtがyate[ヤテ](19世紀の中頃から)などです。
  • 英       西
  • apartment → apartamento
  • baseball → béisbol
  • goal → gol
  • leader → líder
  • meeting → mitin
  • tennis → tenis
  • yacht → yate

 「ボクシング」のboxingが20世紀の中頃からboxeo[ボクセオ]という形で使われていますが、このことばの成立事情は少し複雑です。英語の動詞にbox「げんこつで殴る」があり、英語はそれを動名詞のboxingにして競技のボクシングを表現しました。スペイン語は20世紀に入ってこの英語の動詞boxからスペイン語らしい動詞boxear[ボクセアル]を作ります。そしてこの動詞からboxeoという語形を作って「ボクシング」を表現しています。
  • box(英)→ boxear(西)→ boxeo(西)

 「旅行者」のtouristがturista[トゥリスタ]になりましたが、この英語はそもそもフランス語のtour「周囲を回ること、散策、散歩」[トゥール]から作られたtour「ツアー、旅行」[トゥアー]があって、それからtouristが形成されました。そしてその語尾の -istがスペイン語で「〜する人、〜主義者」の意味の接尾辞 -istaに置きかえられてturistaが形成されました。
  • tour(仏)→ tour(英)→ tourist(英)→ turista(西)

「トンネル」のtunnelはスペイン語にtúnel[トゥネル]という語形で導入されています。この単語には面白いエピソードがあります。古いフランス語にtonel「樽(タル)」ということばがありました(現在はtonneau[トノ])。14世紀の中頃にはこの単語からスペイン語で同じ意味のtonelが形成されます。そして英語ではこの古いフランス語から「樽」の意味のtunnelが作られましたが、この意味が「地下道、トンネル」の意味で使われるようになり、この英語が19世紀の中頃にスペイン語に入ってtúnelになりました。
  • tonel(仏)→ tonel(西)→ tunnel(英)→ túnel(西)

 英語からスペイン語に入った単語には、英語のスペルのまま使われているものがたくさんあります。スペイン語は英語とほとんど同じアルファベットを使っているので、しばしばそのまま導入されるのですが、スペイン語として読まれるので、発音は少し異なるようですね(たとえばサッカーの「コーナーキック」は英語のcornerで表現しますが、発音は[コルネル]です)。


[三好準之助]
京都産業大学名誉教授

12:00 | スペイン語の多様性
2016/05/30

第8回 スペイン語圏の都市景観(2)[布野修司+Juan Ramón JIMÉNEZ VERDEJO]

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第8回 スペイン語圏の都市景観(2)

アンダルス(スペイン・イスラーム)都市

―コルドバ・セビージャ・グラナダー

布野修司
ヒメネス・ベルデホ・ホアン・ラモン (Juan Ramón JIMÉNEZ VERDEJO)

 イベリア半島の西南部、アンダルシア地方の諸都市は、8世紀から15世紀にかけてイスラームの支配下におかれることによって、ヨーロッパの他の地域の都市とは異なるユニークな特性をもつ。ここでは、コルドバ、セビージャ、グラナダの都市形成とその形態について見てみよう。

コルドバ
 グアダルキビル川の中流域に位置するコルドバは、フェニキア人の植民都市を起源とし、ローマ、特にカルタゴの拠点都市となり、続いて西ゴートの支配を受けてきた。前1世紀の歴史地理学者ストラボンによれば、コルドバはローマ人がイタリアからの入植者のために建てたヒスパニア最初の植民都市であった。一説には、前169年か前152年に国務官 M. クラウディウス・マルケッルスの命令で創設されたといわれる。現在のコルドバの街割りにもローマ時代の区域を認めることができる(図2-1)。

図2-1 コルドバ 発展の歴史 地図と写真
 図2-1

 後ウマイヤ朝を建てたアブド・アッラフマーンⅠ世は、サン・ビセンテ教会を買い取り、コルドバのモスク建設を開始する(785)。このメスキータは、その後様々に拡張、改築され、西方イスラーム圏を代表するモニュメントとなる。そして、13世紀には大聖堂に改造される。教会、モスク、カテドラルという数奇な運命をたどったのがコルドバのメスキータである。

 コルドバへ移住したムスリムの多くはシリア出身であり、その初期の都市形態や景観にはシリアの都市の影響があったと考えられている。10世紀には、その周囲の市壁は全長12km、人口は約50万にも達していたとも言われ、「西方の宝石」と呼ばれて、バグダード、コンスタンティノープルと並ぶ三大都市のひとつとなる。4回の拡張工事で収容人員2万5000人に達したメスキータとそれに隣接する王宮(アルカサル)を中心に、蔵書数40万冊と伝えられる王宮図書館など70の図書館、1600のモスク、800のハンマーム(公衆浴場)、多数のマドラサ(学院)があったとされる。また、城内はハーラ(街区)に分かれ、キリスト教徒やユダヤ教徒もハーラを形成していた。さらに、郊外には21のバラートbalāt(郊外居住区)があったという。

 後ウマイヤ朝は、内部に対立を抱え、各地で反乱、紛争が続くが、アブド・アッラフマーンⅢ世がアンダルス各地を平定し、カリフを宣言(929)する。カリフ制が確立されると、その治世(在位912~961)に最盛期を迎える。アブド・アッラフマーンⅢ世は、カリフに相応しい新都として、コルドバ北西近郊シエラ・デ・コルドバ山麓に宮廷都市マディーナ・アッザフラーを建設している。東西南北1.5km×0.5kmの長方形をしており、1km四方のコルドバに匹敵する規模をもっていた。また、アブド・アッラフマーンⅢ世の孫のヒシャームⅡ世(在位976~1009、1010~13)の治世に実権を握ったマンスール(ハージブ(侍従)在位978~1002)はコルドバの東郊にマディーナ・ザーヒラを新たに造営し、行政の中心としている。

コルドバ ローマ橋・カラオーラの塔・メスキータ・アルカサル・ユダヤ人街


セビージャ

 11世紀になると、後ウマイヤ朝は衰退を始め、1031年には崩壊してタイファと呼ばれる小国に分裂する。タイファ政権の中で最も有力となるのはセビージャに成立したアッバード朝である。

 グアダルキビル川の河口近くに位置するセビージャは肥沃な平野と水利水運に恵まれ、その起源は有史以前に遡る。ユリウス・カエサルが占領して「ヒスパリス Hispalis」と命名し、ローマの自治都市となって「小ローマ Romula」と呼ばれた。ヴァンダル族やスエヴィ族の支配を経て、西ゴ-ト王国成立当初には首都となっている(441)。イスラーム時代に入って、後ウマイヤ朝が崩壊すると、セビージャ王国(1023-93)の首都としてコルドバを凌ぐまでになり、ムラービト朝(1056~1147)下で盛んに建設活動が行われている。その繁栄は、マグリブ王朝であるムワッヒド朝(1130~1269)の時代に頂点に達する。フェルナンドⅢ世は、コルドバに少し遅れて、1248年にセビージャを奪回したが、セビージャは、カスティーリャ王国でも重要な都市として存続する(図2-2)。

図2-2 セビージャ 市街地の発展を表す地図
 図2-2

 1503年通商院が設置されてセビージャは植民地貿易を独占する。結果として、スペイン最大の商業都市に発展し、スペインの黄金の世紀の中心都市となる。黄金の塔(13世紀)、ヒラルダの塔はムワッヒド朝下の建設であり、アルカサル(王宮)は、レコンキスタ(国土回復)後の14世紀にモサラベ職人によって建てられたものである。

セビージャ写真 イタリカ・大聖堂とヒラルダの塔・アルカサル宮殿・インディアス総合古文書館・アメリカ広場・スペイン広場


グラナダ

 「新ベルベル」諸政権の中で最大の勢力を誇ることになるのがグラナダのジーリー朝であった。レコンキスタは、トレド征服(1085)によって本格化するが、カスティーリャ王フェルナンド王の「大レコンキスタ」によって、1230年にバダホス、1236年にコルドバ、1246年にハエン、1248年にセビージャが陥落、グラナダのナスル朝(1232~1492)などわずかな地方王朝がカスティーリャ王国と臣従関係を結ぶことで存続するかたちとなる。

 グラナダもまた都市の起源はローマ時代にさかのぼる。その名は、アルハンブラ宮殿のある丘に8世紀に築かれたユダヤ人居住区ガルナータに由来する。シエラネバダ山脈に囲われた自然の要害にあることから、キリスト教徒が1236年にコルドバを奪回して以後、イベリア半島最後のイスラーム王国ナスル朝の首都として、1492年まで存続することになる。現在の市街にも、ローマ時代の都市核、ネクロポリス、ユダヤ人街、モスク、カテドラルなど、その歴史が重層的・モザイク的に残されている(図2-3)。グラナダを象徴するアルハンブラ宮殿が築かれた市街の東南に位置するサビーカの丘には代々城塞が築かれてきたが、ナスル朝の創始者であるムハンマドⅠ世(在位1237~1257)が宮殿を建設して以来、ナスル朝の歴代王も宮殿を造営してきた。ユースフⅠ世はコマーレス宮を、ムハンマドⅤ世は「ライオンの間」を、それぞれ増築している。グラナダ陥落後、アルハンブラ宮殿には、カールⅤ世(カルロスI世)が宮殿を建設するなど、改変が加えられることになる。

図2-3 グラナダ 地図と写真
図2-3

グラナダ写真 アルハンブラ宮殿・カテドラル・市街・パティオ住宅・アルバイシン


[布野修司]
日本大学特任教授。1949年、松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学、地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手、東洋大学講師・助教授、京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年)、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年)、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。


12:00 | 都市景観
2016/05/09

第7回 セルバンテス文化センター報告書2014年-抄訳-[塚原信行]

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セルバンテス文化センター報告書2014年ー抄訳ー


塚原信行

 スペイン語は20を越える国家と地域において公用語として使われており、ラテンアメリカ地域では特に広く用いられています。このスペイン語の状況について、セルバンテス文化センター(Instituto Cervantes)が毎年報告書を公表しています(セルバンテス文化センターは、スペイン語等の振興と教育、スペイン語圏文化の普及を目的として、1991年にスペイン政府によって設立された公的機関です。詳しくはこちら)。

スペイン語公用語地域図(By Onofre Bouvila (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons)

スペイン語公用語地域図
(By Onofre Bouvila (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons)

 以下は、2014年版の報告書の冒頭の日本語抄訳です(参照元)。数量的なことは、最初の「1. 数字で見るスペイン語」でわかります。1.1以降は、それらについての説明です。


躍動する言語・スペイン語 2014年報告書
セルバンテス文化センター


1. 数字で見るスペイン語

  • およそ4億7千万人がスペイン語を母語としています。母語話者、限られたスペイン語能力を持つ人、スペイン語を外国語として学んでいる人の総計は5億4,800万人を越えます。

  • 母語話者数では、スペイン語は、中国語に続き世界第2位です。また、話者数の総合的な数(母語話者、限られたスペイン語能力を持つ人、スペイン語を外国語として学んでいる人の合計)でも同じく2位です。

  • 人口学的な理由により、世界におけるスペイン語母語話者数の割合は増加しています。一方、中国語と英語についての同割合は低下しています。

  • 2014年現在、世界人口の6.7%がスペイン語話者(母語話者がおよそ4億7千万人)で、これはロシア語(2.2%)、フランス語(1.1%)、ドイツ語(1.1%)を上回ります。2050年には、世界人口の7.5%がスペイン語話者になると予想されています。

  • 3〜4世代のうちに、世界人口の10%がスペイン語でコミュニケーションするようになる見込みです。

  • 世界でおよそ2,000万人が外国語としてスペイン語を学んでいます。

  • アメリカ合衆国におけるスペイン語話者は現在5,200万人ほどです。2000年から2010年にかけてアメリカ合衆国で増加した人口の半分以上がスペイン語話者でした。2050年には、アメリカ合衆国が世界で最もスペイン語話者が多い国になると見られています。


1.1 世界の言語とその話者


 世界で話されている言語の数を正確に定めることは簡単ではありません。というのも、相互に一定度理解できる2つのことばを、 1つの言語の2つの方言と見なすべきか、あるいは2つの別々の言語と見なすべきかを区別する普遍的な基準はないからです。加えて、世界で話されている様々な言語の話者数に関するデータを正確に収集する、無条件に信頼できる調査も存在しません。いずれにせよ、現在、世界には6,000から6,500の言語が話されていると考えられています。しかし、大多数の人は、非常に限られた数の言語しか使っていませんが。

 中国語やスペイン語、ヒンディー語や英語のように、地理的に非常に広範囲に分布する母語話者人口を持つ言語があります。一方、フランス語やアラビア語、ポルトガル語のように、母語話者はそこまで広い範囲に分布していませんが、国際的には広く用いられている言語があります。

 スペイン語は、母語話者数においては、10億人以上の中国語に続き、世界第2位です。


1.2 スペイン語人口:スペイン語話者数とその増加についての予測

 スペイン語は、今日、母語・第二言語・外国語として5億4,000万人以上によって話されている言語です。スペイン語は、母語話者数において世界第2位、国際コミュニケーションにおける使用についてもやはり世界第2位です。具体的な状況を考える場合、スペイン語が公用語や国家語であったり、一般的に用いられ る言語になっている地域と、その存在が少数派となっている地域とを区別することが適切です。前者の場合、話者の大部分は母語話者あるいはそれに準じた能力 を持っていますが、これはスペイン語圏以外では見られないことです(表1および表2)。

 セルバンテス文化センターが現在用いている数字は、2000年から2014年の間に実施された国勢調査に基づくものや、各国の統計局による公式な推計値、2011年から2014年の国連公式推計値に基づくものです。合計すると、母語話者、限られたスペイン語能力を持つ人、スペイン語を外国語として学んでいる人の総計が5億4800万人程度であると見込まれています。なお、スペイン語圏におけるスペイン語母語話者あるいはそれに準じた能力を持つ話者を算出するにあたり、スペイン語以外の言語を母語とする人の割合を考慮に入れ、スペイン語とその他言語のバイリンガルについては算入しています(表3)。


1.3 増加予測

 世界で話者数が多い5言語(中国語・英語・スペイン語・ヒンディー語・アラビア語)について、1950年から2050年までの話者数推移分析を参照すると、 人口学的理由により、中国語と英語の話者数は相対的に減少となっています。反対に、スペイン語とヒンディー語の話者数は緩やかながらも継続増加となっています。また、アラビア語は、アラビア語地域以外ではそれほど広く使用されていないものの、相対的には大きな話者数増加を示しています。

 Britannica World Dataのような、また別の予測もあります。これによれば、2030年には、世界中の言語話者の7.5%がスペイン語話者になるだろうと予測されています。これは、ロシア語(同予測2.2%)、フランス語(同1.4%)、ドイツ語(同1.2%)を大きく上回ります。

  もしこうした傾向が変わらなければ、3〜4世代のうちに、世界人口の10%がスペイン語で意思疎通を行うようになるでしょう。2050年には、アメリカ合 衆国が世界で最もスペイン語話者が多い国になるとのことです。アメリカ合衆国国勢調査局の推計によると、2050年にはスペイン語系住民は1億3,280 万人となり、これは同国人口のおよそ30%、3人に1人に該当することになります。


1.4 外国語としてのスペイン語

 2005年に作成された「世界におけるスペイン語学習に関するベルリッツ報告」によると、外国語として最もよく学ばれている言語は順番に、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語です。

  普遍的で完全かつ比較可能なデータは存在しないのですが、それでも、少なくとも2,000万人が外国語としてスペイン語を学んでいると推計されています。 これは、スペイン語を公用語としない93ヶ国におけるスペイン語学習者の現在値を合計したものです。公教育以外も含む、すべての教育レベルにおける学習者の数であり、かつ、各国で入手可能なデータにのみ基づいています。したがって、データは完全でも網羅的でもなく、私立教育機関のデータはほとんど反映されていません。このため、セルバンテス文化センターは、スペイン語学習に対する実際の需要は、少なくとも表4に示されるデータの125%以上であろうと見積もっています。

  過去数年でスペイン語に対する需要が増加したことを示す部分的な指標がいくつかあります。ブラジル政府の推計によれば、同国では10年のうちに、スペイン語を第2言語として話す人口が3,000万ほどになるとのことです。世界中にあるセルバンテス文化センター支部のスペイン語コース履修者総数は、1993 年から2013年の間に14倍になりました。もっとも、需要の一般的傾向はスペイン語コース履修者数の増加に現れているのですが、2012年度は前年度比 で2%の減少でした。セルバンテス文化センターのスペイン語コース始まって以来の初めての減少ですが、これは、単にスペイン語を教えることだけでなく、質 の高さを保証しつつスペイン語教員数を増やすことに基づいてスペイン語の振興を図ってきた結果です。

 「外国語としてのスペイン語能力検定試験 (DELE)」はスペイン教育省の管轄の下、セルバンテス文化センターが実施する、スペイン語の運用能力を公的に証明する試験であり、123ヶ国以上で実 施されています。2012年度は833ヶ所で実施され、前年度に比べて実施会場が9%増加しました。受験者数は6万6,281人で、前年度は65,535 人でしたので、1%ほど増加したことになります。

 スペイン語コミュニティーは、アメリカ合衆国のマイノリティーの中では、際だって大きな、最大のものです。アメリカ合衆国国勢調査局によれば、スペイン語系住民の数は、2010年にはすでに5,000万人を超えていました。これは2000年から2010年の間にスペイン語系住民が1,520万人増加したことを意味しており、同期間に増加したアメリカ合衆国人口2,730万人の半分以上がスペイン語系であったことを示しています。2010年から2010年の間にスペイン語系人口は43%の増加を示し、これは合衆国人口の増加率9.7%の4倍にもなります。

 現在のアメリカ合衆国内のスペイン語系人口はおよそ5,200万人であり、うち3,700万人が母語話者あるいはそれに準じるスペイン語能力を持ち、残りの1,500万人は、さまざまレベルのスペイン語知識や使用機会を持つ、限定されたスペイン語能力保有者と見られます。もし、国勢調査に基づくこのスペイン語話者数に、スペイン語圏出身の非正規移民970万人ほどを加えるとすれば、アメリカ合衆国における潜在的スペイン語話者数は約 6,200万人に達するでしょう。

 スペイン語系であることがスペイン語についての実質的な知識の保有を必ずしも意味するわけではありませんが、 2つの要素の間の相関は非常に高いものです。スペイン語系家庭の73%以上が、コミュニケーションのために多かれ少なかれスペイン語を用いており、英語のみを使っている家庭はスペイン語系家庭全体の26.7%だけです。加えて、若い世代におけるスペイン語知識保有率の高さは、アメリカ合衆国におけるスペイン語の勢いをよく示しています。ある意味では、移民第2世代以降はアメリカ合衆国のるつぼの中で祖父母の言語を最終的には失ってしまうという神話を破壊しているとも言えます。

 アメリカ合衆国におけるスペイン語話者人口の増加のカギの1つは、家庭環境においてスペイン語使用が占める大きさです。2007年実施のAmerican Community Surveyに よれば、スペイン語系住民の中でスペイン語能力が最も高い年齢層は、5歳〜17歳でした。これは、スペイン語の習得にとって、家族による言語的影響が非常に重要だということを示唆しています。スペイン語系コミュニティーのメンバーが家庭環境を離れ、社会的・職業的生活に入っていくに従ってスペイン語能力はわずかに低下していくとしても、スペイン語維持度はやはり非常に高いままです。

 一方、スペイン語系住民のさまざまな年齢層において高いスペイン語能力が確認されたことは、スペイン語共同体が英語世界の片隅で、それ自体で生き残ることができるだけの臨界を超えたことを示しています。実際のところ、スペイン語系住民の社会的統合とスペイン語の喪失とはすでに切り離されており、このために、特別な努力をしなくてもスペイン語が維持できるほどに、スペイン語による文化的社会的活動やスペイン語メディアが広範に存在しているのです。

  最後に、これらのスペイン語話者に加え、コミュニケーション上の必要からであれ、よりよいキャリアのためであれ、第2言語としてスペイン語を学んだアメリカ(合衆国)人も忘れないでおきましょう。事実、スペイン語と英語のどちらでもコミュニケーションできる能力は、アメリカ合衆国の労働市場では評価されるということを示す経験的研究がいくつか存在します。

 おそらく、これが、毎年数多くアメリカ人大学生がスペイン語コースを履修する理由の1つなのでしょう。スペイン語コース履修者の合計は、その他言語履修者の合計を上回っています。


[塚原信行]
京都大学国際高等教育院・附属国際学術言語教育センター・准教授




12:00 | グローバリゼーション
2016/04/28

第6回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から― (3)[三好準之助]

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スペイン語の多様性 ―単語の出自から―(3)


三好準之助

 日本は海に囲まれた島国ですから、外国とは船や飛行機を使って出入りします。スペインはヨーロッパ大陸の西の端のイベリア半島にあります。ほかのヨーロッパの国々とは陸続きですから、外国の人が徒歩ででも容易に出入りできます(現在はヨーロッパ連合(EU)があるので、ほとんどのヨーロッパの人々は国境を自由に往来することができます)。スペインは古くからヨーロッパとアフリカの経由地であったため、多くの外国人が北から南からやってきたり通過したりしていました。人の往来は、彼らが使う言語の要素がスペイン語に入る機会にもなります(前回にお話したアラビア語を使う人たちもその一部です)。今回は近隣の国々からスペイン語に入った単語を紹介します。

 スペインに隣接している国はポルトガルとフランスです。ピレネー山脈の北に広がるフランスは、フランス革命(1789年)を経た19世紀の初めにひとつの国になりました。フランスの国語(フランス語)は国家形成の当時に北フランスのロマンス語(オイル語)を母体として制定されました。しかしスペインに隣接する南フランスには古くから別のロマンス語が使われていました。それがプロバンス語です。スペイン語は中世から、この言語の単語を受け入れています。日本では料理に月桂樹の葉が使われますが、月桂樹は「ローレル」と呼ばれることもあります。日本語には英語のlaurelから入ってきました。この月桂樹はスペイン語でもlaurel[ラウレル]と言います。スペイン語には13世紀ごろに古いプロバンス語(laurier)からlorer[ロレル]という形で入りました。地中海地域における月桂樹は、ギリシア時代からスポーツの勝利者に冠として与えられる有名な木ですね。この古プロバンス語はラテン語laurusから形成されました。日本語には、英語messageから入った「メッセージ」という外来語があります。この英単語は古いフランス語から借用されましたが、元はプロバンス語のmessatgeです。そしてこのプロバンス語はスペイン語に入って、12世紀ごろにはmesaje[メサジェ]という形で使われ、現在ではmensaje[メンサヘ]として使われています。

 フランス語からスペイン語に入った単語もたくさんあります。しかしその語源が、北フランスのオイル語系なのか、南フランスのプロバンス語なのか、あるいはスペイン東部のカタルーニャ語からなのか、判然としないことが少なくありません。フランス語からスペイン語に入ったとされる単語には、たとえば既に中世で使われていたchimenea[チメネア]があります。「煙突」という意味です。このスペイン語は同義のフランス語cheminéeから借用されました。このフランス語が英語に入ってchimneyになっています。「庭」を意味するスペイン語jardínもフランス語jardin[ジャルダン]から形成され、15世紀末頃から使われています。古いドイツ語には同系統のことばgart「円」があり、それから英語のgarden「庭」が生まれました。近世にはいると多くのフランス語がスペイン語に入ります。「ズボン」の意味のスペイン語pantalón[パンタロン]はフランス語pantalonから入りました。日本でも裾(スソ)が広がった長いズボンのことを「パンタロン」と呼びますね(日本語には直接フランス語から入ったようです)。「公園」の意味のスペイン語parque[パルケ]もフランス語系です。同義のフランス語parc(もとの意味は「囲いをめぐらせた狩猟場」)から形成されました。このフランス語は英語に入ってparkになります。

 フランス語ほどではないですが、イタリア語からも多くのことばがスペイン語に入っています。日本語で「カーニバル」と言えば華やかな催しを指しますね。この日本語は同義の英語carnivalから入りました。そしてこの英語はイタリア語carnevale(もとの意味はカトリックの行事の「謝肉祭」)の借用語ですが、このイタリア語はスペイン語に入ってcarnaval[カルナバル]になりました。また、日本語にも明治時代に英語modelを介して「モデル」ということばが入っていますが、この語源はイタリア語のmodelloです。イタリアは芸術の国ですが、楽器の「ピアノ」はイタリアで発明されました。それが英語pianoになって日本語にも入りましたが、スペイン語にも19世紀に同じつづりで入ります。日本語の「セレナード、小夜曲」はフランス語のsérénadeから入りましたが、それはイタリア語serenataから形成されました。そしてスペイン語にはこのイタリア語が同じつづりで入っています。

[三好準之助]
京都産業大学名誉教授

00:00 | スペイン語の多様性
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