ラテンアメリカの「先住民」
村上勇介
ラテンアメリカ(中南米)の先住民と聞けば、色鮮やかな民族衣装を着た、われわれモンゴロイド系と何となく似通ったところがある人々を思い描くかもしれない。あるいは、「コンドルは飛んでゆく」のような民族音楽の奏でる音色を思い浮かべるむきもあろう。そうした心象は日本に限らず、世界中に拡散しているものであり、また決して誤ってはいない。
それでは、なぜここで括弧をつけて「先住民」としているのか。それは、色鮮やかな民族衣装を着ているラテンアメリカの先住民は、同じように色鮮やかな民族衣装を着けた、例えば東南アジアの先住民とはいささか意味合いが違うことを言いたいためである。以下にその理由を説明する。
高校の世界史や地理で習ったとおり、現在われわれがラテンアメリカと呼んでいる地域の先住民と呼ばれる人々は、氷河期の末期に、凍っていたベーリング海峡を渡って移住したモンゴロイド系の子孫である。ラテンアメリカの先住民の人々も蒙古斑を持って生まれる。大航海時代にスペインとポルトガルの植民地となってからは、少数の白人支配のもとで厳格な身分制社会の底辺に追いやられた。植民地期以降、徐々に混血が進む一方、格差社会の構造が大きく変わることはなく、階層が下になるほど先住民系の血が濃くなる傾向は今日に至るまで観察されている。
そうした白人系と非白人系の区別や格差構造などは、同じように植民地を経験したその他の地域でも見られる傾向ではないかと言われるかもしれない。確かにそうした傾向は世界各地にみられる。それでは、何が違うのか。それは、植民地としての経験のあり方である。ラテンアメリカは、16世紀から19世紀初頭までと、他の地域と比較してもかなり長期に植民地支配のもとにあった。それによって、先住民社会・共同体といえども、一定の再編・改変過程を経ているのである。ラテンアメリカ以外の地域では、19世紀以降の帝国主義の時代に植民地化が進むが、その過程では、点と線を支配する傾向がラテンアメリカよりも強く、その分、先住民社会への浸透は弱かった。
象徴的な例を挙げよう。南米のアンデス山脈地域に住む先住民の多くが使用する言語にケチュア語がある。話者の多いペルーとボリビアでは公用語の一つになっている。それでは、ケチュア語は元々多くの先住民が使用する言語だったのか。
実は、ケチュア語が多くの先住民によって使われるようになったのは、植民地時代である。キリスト教の布教を行おうとしたカトリック教会が、「先住民言語」として用いたことから、アンデス高地においてケチュア語が定着したのである。そうした状況は、先住民言語としては話者の多い、アイマラ語(ペルー南部とボリビア)やナワトゥル語(メキシコ)についても当てはまる。
それ以前はどうだったのか。現代の表現を使えば、多文化状況にあったのである。広範囲に統一的な支配権力を確立した部族(アンデス高地ではインカ族)は、傘下に置いた各地の支配層については自らの言語や習慣を押し付けたが、民衆レベルまではそのようなことはしなかった。つまり、各地には、独自に発展していた様々な文化が言語も含めて存続していたのである。
以上のような状況から、植民地時代にケチュア語が定着したといっても、各地の状況に応じたバリエーションが生まれた。ケチュア語をはじめとするラテンアメリカの先住民言語は元来文字を持たず、また、当時は文法が規範化されていたわけでもなかったので、布教という「実践現場」では様々な融合が発生したからである。実際、ペルー南部のクスコのケチュア語について、同国中部のアヤクチョ出身者であれば半分ぐらいは理解できるが、北部のカハマルカ出身者は全く理解できないという。
植民地体制による再編・改変を経ているとはいえ、植民地期以前の要素や特徴が先住民社会・共同体から消滅したわけでは決してない。押し付けられた枠への適合を余儀なくされながらも、独自の要素や特徴を一定のレベルで保ち続けてきている。日曜日の午前中にミサのため教会に行き、午後にはアンデス高地の地母神パチャママへの儀式を行う、といったことが当たり前のように行われている。
2016年度前期は「ラテン・アメリカ現代社会論」(水曜2限)を担当。